経歴
2016年11月24日
私の歩んで来た道(63)
野党になって判ったことは、遊びというのは忙しい中で時間を見つけてやるから楽しいので、有り余る時間の中でゴルフ、麻雀、囲碁等私の好きな事をいくらやっても楽しくないという事である。
一度覚えた水割りの味は鳩山邦夫さんに笑われたように、サントリーを水道の水でただ割って飲む、という単純な事であったが、心を慰める手段としてはとても大事であった。
国会の方は細川総理に対する攻撃は続いていた。私は自民党の東京都連の幹事長をしていたが、今と違って候補者のいない選挙区が幾つもあった。渡辺美智雄先生に呼ばれ、朝日新聞に松島みどりという記者がいる。政治に対し強い希望を持っているから面倒をみろというお話し。さてどうやって選挙区を見つける事ができるのか。私は大胆にも「公募」というものを自民党として全国で初めて実施をした。松島さんは見事に合格されて候補者となる事ができたが、地盤もお金もない候補者であったので、資金的に大丈夫かという事を随分人から言われた。松島さんは東大を出ている。朝日新聞の記者である。というのが売りであった。(それでも当選を重ね、大臣までなったのであるから、本人の努力は相当なものであったに違いない。)
その当時私は党の広報委員長、都連の幹事長を務めていたが午前中で仕事を終ってしまう。あとは「環境問題」と「物理」の勉強に費やしていた。
政権が成立して後、連立8党みんなが社会党イジメをしたために、時間が経つにつれて社会党は連立を離脱する方向になった。夜の12時過ぎてからの村山富市さんの記者会見は後に私が村山さんの後ろに後光が射しているようだったと形容したように、私にとってこんなに嬉しい事はなかった。ここで連立離脱を宣言したのである。これで我々仕事に戻れるかもしれぬという希望は大きかった。
小沢さんが何故解散をしようとした羽田総理を強引に引きとめたかは我々にはよく判らぬ事である。羽田首相は辞めて総理が居なくなる訳であるから、本会議で首班指名選挙が行われる。自民党の執行部は我々に指名は村山富市氏にするようにと指示を出した。終ってようやく気が付いた動き、私の所属する旧中曽根派は渡辺美智雄氏が中心となって、海部内閣をもう一度作るという事を考えていて、指名選挙の直前にFAXで海部氏の名前を書けと指示を出して来た。バタバタしている中での出来事で、そんなFAXは気にもとめないで我々としては党の執行部の言う通りの行動をした。
村山氏が首班に指名された。これはある意味で革命的な事であった。
憲法9条を必死で守って来た社会党が「非武装中立」という路線を捨て、現行の自衛隊、日米安保条約を容認するところまで変容したという事である。自民党の中でも保守の純粋性にこだわるあまり、社会党と政権を作るという事に拒絶反応をする人が出て来たのは自然の事であったろう。しかし政権を再び担う、国家の運営を自分達でやるという事の前には、保守の純粋性を説いてもそれは力のない事であった。
村山氏が総理官邸に入り、組閣が始まった。
私は党本部の広報委員長室でその様子をテレビで見ていた。その頃は5回当選すると適齢期になり、大体の人は閣僚になれたが、私の属する渡辺派(旧中曽根派)は途中でよそから大臣狙いで我々の派に参加した人がいたりして、皆婚期を逃していた。自民と社会の閣僚の配分をどうするのかとか政権を作るための準備というものは一切なかった中での組閣であったのではないかと思う。
突然テレビで文部大臣は与謝野馨と報じられた。何か雲の上を歩いているような感じになった。その時ドアが開いて、島村宣伸議員が顔を出し「おめでとう、先に大臣をやってください。」と言われる。彼とは全く同じような経歴を辿って来たので、どちらが先に大臣をやっても不思議ではない事情があった。私は誰にも人事の事はお願いした事はなかったし、文部大臣を自分が務まるとも思っていなかった。文部大臣は高潔な人間が務めるべき地位であって、私のような俗人がふさわしいかどうか大いに疑問であった。
その時はまだ気がついていなかったのであるが、自民と社会では「教育」についての立場の違いは明確であり、これを克服できるのかというのはスタートの時の一番大きな疑問点であった。自民党は日教組を忌み嫌い、その政治路線と闘う事が自民の教育政策になっていたし、役人も日教組を自分達の「敵」とみなして教育行政をやって来た。自民党の文教族の伝統的な立場は日教組と闘うという事が、最大のテーゼであった時代である。
私の秘書官には前川喜平氏が就任した。全てが終わって家に帰る車中で彼は私にこう言った。「いずれお判りになる事ですから前もって申し上げておきますが、私の妹は中曽根弘文氏の妻であります。」
前川氏は弘文氏の義理の兄にあたる事になる。後に康弘夫人によくからかわれたのは「貴方の事は全部耳に入るのよ。」
その時の前川秘書官は今は文科省の次官になっている。公務員試験もすごく良い成績であった。加えて私と同じ麻布中・高であったので大変気持ちよく仕事が出来た。
まず村山内閣として国会で追及されたのは、国旗・国歌の問題です。
卒業式の時などで、起立しない、歌わないという事が頻発し、教職員がそのように仕向けている、日教組のせいだというのが自民党側の言い分であった訳です。
私は国会答弁で「学習指導要領に基づいて、教師は子供達に国旗・国歌の事を教える。これはいわば当然の事である。」という立場をとりました。一方教えられる生徒の側からみれば「一人一人の生徒は内面的自由を有している。教えられた事をどう受けとめるかは、個々の生徒の内面性による。これが私の答弁であり、この答弁は今は文科省の標準の答弁となっています。
次に出て来たのは「イジメ」の問題で、これは理屈抜きで厳しくやらねばならない。「大人がやっていけない事は、子供もやってはいけない」という立場をとり、現場の教育委員会、校長等にひるまず筋を通せという事を言ったのです。